先日、甲子園の試合後に握手を拒否した高校生たちがいた。
ネットでは賛否両論が渦巻き、
「スポーツマンシップに反する」
「負けた腹いせだ」
などという声が飛び交った。
でも——
僕は怒りではなく、感銘を受けた。
そして、ほんの少し、未来に希望を感じた。🌱
🏟️ 試合に勝ったチームと、負けたチーム。
整列、一礼、そして握手。
たしかに、それが「甲子園の礼儀」として定着しているのはわかる。
でも、彼らはその握手を拒否した。✋🤝🚫
「礼儀がなってない」
「負け惜しみ」
…そんなふうに受け取った人も多かったようだ。
けれど、僕にはあの行動が
**単なる“拒否”ではなく、“沈黙の抵抗”**に見えた。
🏫 広陵高校では、過去に部内暴力問題が起きていた。
その加害選手が出場していたという報道もある。
だとすれば、あの握手拒否は──
✊ 相手チームだけでなく、
暴力を容認した社会・制度・大人たちへの
静かで確かな「NO」だったのではないか。
🎌 あの子たちは、負けたから握手しなかったんじゃない。
きっと、勝っていても握手はしなかったと思う。
なぜなら、
そこにあったのは勝ち負けじゃなく「信念」だったから。
彼らはちゃんと帽子をとって一礼した。🙏🎩
つまり、最低限の礼儀は尽くしていた。
それでも、
「本心から敬意を抱けない相手とは、握手はしない」
──そういう意思だったんじゃないか?
それってむしろ、誠実で、勇敢なことだと僕は思う。
高校野球、特に夏の甲子園は、
単なる部活動や学校行事の枠を大きく超えている。⚾📺
- 📡 全国中継される大舞台
- 👀 数百万の視聴者が「全国の高校生の代表」として注目
- 📰 新聞・テレビ・SNSで連日報道される
- 🧑🏫 教育の象徴として、子ども・保護者・学校関係者も見守る
つまり、彼らの一挙手一投足は
“全国が見ている”という、特別な重みを持っている。
そんな中で取った“握手拒否”という行動には、
言葉を超えたメッセージ性が宿る。
🎯「発言力」とは、言葉の巧さだけじゃない。
“誰が・どこで・どのタイミングで”示したかで、
その影響力は何倍にもなる。
そして、彼らは──
最も注目される場所で、最も注目される時間に、
“礼を拒否する”という静かな抗議を行った。
だからこそ、それが全国に波紋を広げたのだと思う。
🗣️ この場面でふと思い出した言葉がある。
🎭 2017年、女優メリル・ストリープがゴールデン・グローブ賞でこう語った。
🕯「芸術家の仕事は、異なる人生を生きる人の心を理解し、
その感情を作品を通じて伝えること。“傷ついた心を、芸術に変えなさい”
(Take your broken heart, make it into art.)」
彼女はこのスピーチで、
「影響力のある人こそ、社会の不正に対して声を上げるべき」
というメッセージを明確に打ち出していた。
それは、僕が今回の高校球児たちに感じたこととまったく同じだった。
📢 彼らは、自分たちの影響力を知っていたかはわからない。
でも、あの場で“握手をしない”という選択をした。
それは、大人でもなかなかできない“発信”だった。
🧍♂️あの高校生たちは、
「高校球児」以前に、1人の人間として行動した。
自分の中にある違和感に正直であろうとした。
その結果が、「握手をしない」という選択だった。
もちろん、「TPOがある」「空気を読め」という意見もある。
それも理解できる。
でも——
📣 “影響力のある人が、影響力のある場で、
伝えるべきことを伝えるからこそ、社会は動く。”
そして彼らは、それを見事に体現していたように思う。
👀 誰かに笑われるかもしれない。
📉 誰かに批判されるかもしれない。
でも、恐れよりも信念を選んだあの姿に、僕は心を打たれた。
それは、一番勇気のいる選択だったはずだ。
🔥 あの姿を見て、思った。
未来は、思っているよりも明るいかもしれない。🌞
彼らのように、
「これっておかしい」と感じたときに、
黙らず、流されず、行動で示せる若者たちがいるんだから。
だから、どんなに批判されても、
どれだけ“礼儀がない”と責められても、
僕は、こう言いたい。
👏✨ それでも、僕は彼らに拍手を送りたい。
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